カルディのヌガークラッカーが好きだと言うだけで、少しだけ自分を取り戻せた夜

「また買ってしまった」を、誰に言い訳しているのだろう
カルディへ行くとき、私はだいたい「コーヒー豆を見に来ただけです」という顔をしています。
でも、本当は違います。
店内に入った瞬間から、私の目はコーヒー豆よりも先に、お菓子が並ぶ棚を探しています。入り口でもらった小さなカゴを腕にかけ、オリーブオイルやパスタソースを眺めながら、頭の中ではずっと考えています。
今日は、あるだろうか。
あのヌガークラッカーが。
塩気のあるクラッカーの間に、やわらかなミルクヌガーが挟まった台湾のお菓子です。ヌガークラッカーは、中国語では「牛軋餅」などと呼ばれ、甘いヌガーと塩味のクラッカーを一度に楽しめる組み合わせとして知られています。ネギを練り込んだクラッカーを使ったものもあり、その不思議な甘じょっぱさが好きだという声がある一方で、ネギの香りによって好みが分かれるお菓子でもあるようです。
正直に言います。
最初に見たときは、そこまで期待していませんでした。
ヌガーという言葉には、歯にくっつきそうなイメージがありました。クラッカーに甘いものを挟むなら、チョコレートかクリームでいいのではないかとも思いました。
ましてや、そこにネギの風味まで加わるなんて。
会議に呼ばれていない人が三人くらい集まって、勝手に新商品を作ったような組み合わせです。
けれど、初めてひと口食べた瞬間、私の中の会議は全会一致で可決しました。
好き。
ものすごく好き。
クラッカーがサクッと割れたあと、ミルクの甘さがゆっくり追いかけてきます。甘いだけで終わらず、塩気が戻ってきて、もう一枚食べたくなります。
一枚でやめるつもりだったのに、二枚目の袋を開けます。
二枚でやめるつもりだったのに、なぜか温かいコーヒーまで用意しています。
自制心というものは、ヌガークラッカーの前では、だいたい玄関に置いてきた傘くらい簡単に忘れられます。
それでも、買い物カゴに二袋目を入れるとき、私は少しだけ周囲を気にします。
また買うの。
そんなに好きなの。
太るんじゃない。
誰かに言われたわけではありません。
知らないお客さんが私のカゴを採点しているはずもありません。
それなのに、大人になると、好きなものを買うだけで言い訳を用意してしまいます。
仕事を頑張ったから。
今週は節約したから。
一袋は友達にあげるかもしれないから。
本当は、「好きだから買う」で十分なはずです。
三百円や五百円ほどのお菓子にさえ理由が必要になったのは、いつからでしょう。
若い頃より自由に使えるお金は少し増えたはずなのに、好きなものを選ぶ自由だけは、なぜか小さくなっている気がします。
服を買うときは、長く着られるかを考えます。
化粧品を買うときは、口コミと成分と容量を比べます。
婚活で誰かに会うときは、その人を好きかどうかより先に、条件や将来性や生活リズムを考えてしまいます。
間違えないように。
損をしないように。
あとで後悔しないように。
そうやって慎重に生きているうちに、私は「ただ好き」という気持ちを、少しずつ信用できなくなっていました。
けれど、ヌガークラッカーを前にした私は驚くほど正直です。
栄養バランスも、将来性もありません。
履歴書にも書けません。
婚活のプロフィールに「趣味・ヌガークラッカー」と書いたところで、話題が広がる可能性より、そっと画面を閉じられる可能性のほうが高そうです。
それでも好きです。
役に立つかどうかを考えずに好きになれるものが、私にはまだ残っていました。
それが、なんだかうれしかったのです。
夏の夜だけ、自分の機嫌を他人任せにしない
2026年7月13日は、二十四節気では「小暑」の頃です。2026年の小暑は7月7日に始まり、大暑は7月23日です。暦の上でも、暑さが本格的になっていく季節に入っています。
夕方になっても、昼間の熱がベランダや道路に残っています。
エアコンをつけた部屋で髪を乾かしているのに、首のあたりにはうっすら汗をかきます。冷蔵庫から麦茶を出し、コップに注いだ氷の音を聞くと、ようやく一日が終わる気がします。
夏は、明るい季節だと言われます。
花火、海、旅行、夏祭り。
SNSを開けば、誰かの楽しそうな予定が流れてきます。
けれど、独身で仕事をしながら暮らしていると、夏だからといって毎日が特別になるわけではありません。
むしろ、暑さで化粧は崩れます。
電気代が気になります。
髪は湿気でまとまりません。
休日に出かけようと思っても、玄関を開けた瞬間の熱風で、予定の半分を諦めます。
恋人がいない夏は寂しいですか、と聞かれたことがあります。
正直に言えば、寂しい夜もあります。
友人が夫婦で旅行している写真を見たとき。
子どもとプールへ行ったという話を聞いたとき。
婚活アプリで少し気になっていた人から、急に返信が来なくなったとき。
私の人生だけが、同じ場所で足踏みしているように感じることがあります。
三十代になると、寂しいと言うことすら難しくなります。
二十代の頃なら、「彼氏ほしい」と笑いながら言えました。
今それを言うと、切実すぎる気がして、冗談のふりをしてしまいます。
平気です。
一人も楽しいです。
仕事が忙しいですから。
本当は誰にも聞かれていないのに、先回りして答えを用意します。
そんな夜、私はヌガークラッカーを一枚だけお皿に出します。
袋のまま食べると全部なくなりそうなので、最初は一枚です。
コーヒーを淹れます。
夏なのだからアイスコーヒーにすればいいのに、エアコンの効いた部屋では温かいものが飲みたくなります。
クラッカーを半分に割ると、白いヌガーが少し伸びます。
この瞬間が好きです。
誰かに褒められるためでもありません。
写真を撮って投稿するためでもありません。
美容のためでも、ダイエットのためでも、婚活のためでもありません。
私はただ、自分が好きなものを自分に食べさせています。
それは、とても小さな行為です。
けれど、自分の機嫌を誰かに取ってもらうのを待たないという意味では、案外大きなことかもしれません。
好きな人から連絡が来なければ、私は落ち込みます。
仕事で嫌なことを言われれば、帰宅しても引きずります。
友人の幸せを心から喜べない自分に気づいて、さらに落ち込みます。
人間なので、簡単には強くなれません。
「他人と比べない」「自分を大切にする」と言われても、そんなスイッチが体のどこかにあるわけではありません。
私は今でも比べます。
焦ります。
嫉妬もします。
一人で生きていけると思う日と、一人で老いていくのが怖い日を、何度も行ったり来たりしています。
だからせめて、今日の夜くらいは、自分の機嫌を完全に他人任せにしないと決めます。
返信がなくても、おいしい。
予定がなくても、おいしい。
将来が見えなくても、クラッカーはサクサクしています。
そんなことで人生の問題は解決しません。
もちろん、ヌガークラッカーを食べても結婚相手は現れませんし、年収も上がりません。開いた毛穴も閉じません。
でも、問題が解決しない夜にも、人は何かを好きでいていいのだと思います。
前向きになれなくてもいい。
答えが出なくてもいい。
ただ、おいしいと思える自分が残っていれば、今日はそれで十分です。
「自分を大切にする」という言葉は、少し立派すぎます。
もっと情けなくても、雑でもいいのだと思います。
嫌なメールをいったん閉じる。
お風呂を明日に回す。
誰にも見せない部屋着で寝る。
ヌガークラッカーを、予定より一枚多く食べる。
そういう小さな甘やかしで、ぎりぎり今日を終わらせる夜があります。
私は、それを怠けとは呼びたくありません。
今日まで自分を運んできた人への、ささやかな手当てです。
最後の一枚を食べたのは、私ではなかった
ある夜、楽しみにしていたヌガークラッカーの袋を開けると、残りは一枚だけでした。
私は少し迷いました。
明日の夜に残しておくか。
今、食べてしまうか。
一枚しかないと思うと、急に特別なものに見えます。
人は、なくなりそうになると大切さに気づく生き物です。
恋愛も、友情も、若さも、ヌガークラッカーも、だいたい同じです。
私は最後の一枚をお皿に置き、コーヒーを淹れました。
スマートフォンを見ると、母からメッセージが届いていました。
「近くまで来たから、野菜をドアにかけておいたよ」
玄関を開けると、トマトとキュウリの入った袋がありました。
その下に、小さな保冷バッグも置いてあります。
中には、母が作った麦茶と、スーパーで買ったらしいプリンが二つ入っていました。
一人暮らしの娘に野菜を届ける母。
三十代になっても、こういうことをされると、ありがたいより先に少し情けなくなります。
私はまだ、世話をされる側なのだと思ってしまうからです。
すぐに電話をすると、母は「ちょっと顔を見ようと思ったけど、疲れているだろうから帰った」と言いました。
私は反射的に、「上がればよかったのに」と答えました。
でも、本音では少しほっとしていました。
部屋は散らかっていました。
洗濯物も畳んでいません。
テーブルの上には、食べかけのお菓子と婚活アプリを開いたままのスマートフォンがあります。
ちゃんと暮らしている娘の顔を、母に見せられる状態ではありませんでした。
電話を切ったあと、急にプリンを食べる気にはなれませんでした。
私は、最後のヌガークラッカーを見つめました。
さっきまであんなに楽しみにしていたのに、なぜか喉を通らない気がしました。
そのとき、インターホンが鳴りました。
ドアを開けると、母が立っていました。
「車の鍵、袋に入れたままだった」
母は照れたように笑いました。
そして、私の肩越しに部屋を見ました。
散らかった服。
置きっぱなしのマグカップ。
半分開いたお菓子の袋。
私は観念して、「ちょっとだけ上がる?」と聞きました。
母は靴を脱ぎながら、テーブルのお皿を見つけました。
「これ何?」
「ヌガークラッカー。すごく好きなの」
私は、最後の一枚を半分に割ろうとしました。
けれど、ヌガーが思ったより伸びて、きれいには分かれませんでした。
片方にはたっぷりヌガーが残り、もう片方は、ほとんどただのクラッカーになりました。
私は母に、ヌガーが多いほうを渡しました。
母はひと口食べて、少し考えるような顔をしました。
「変な味」
やっぱり、と思いました。
ネギとミルクの甘さは、人を選びます。
ところが母は、そのまま残りも食べました。
「でも、もう一個食べたくなるね」
私は笑いました。
もう一個はありません。
最後の一枚だったからです。
私は、ヌガーのほとんどないクラッカーをかじりました。
サクッという音がしました。
少ししょっぱくて、ほんの少しだけ甘さが残っていました。
おいしいはずなのに、なぜか涙が出そうになりました。
寂しかったのだと思います。
恋人がいないからではありません。
結婚できるか分からないからでもありません。
私はずっと、「一人で平気な大人」を演じることに疲れていたのです。
母に部屋を見られたくなかったのも、散らかっていたからではありません。
ちゃんとしていない自分を知られるのが怖かったのです。
三十代なのに将来が決まっていないこと。
収入に余裕がないこと。
仕事に迷っていること。
結婚したいのか、本当に分からなくなる夜があること。
寂しいくせに、人と一緒にいると疲れること。
そういう矛盾だらけの自分を、誰にも見せないように暮らしていました。
でも母は、散らかった部屋で麦茶を飲みながら、何も聞きませんでした。
テーブルに落ちたクラッカーの粉を指で集めて、「今度カルディに行ったら買ってみよう」と言っただけでした。
そして帰り際、冷蔵庫に野菜を入れ、洗いっぱなしだったコップを一つ洗って帰りました。
その夜、私は気づきました。
私が本当に好きだったのは、ヌガークラッカーだけではなかったのです。
誰にも邪魔されない一人の時間が好きでした。
自分の好きなものを好きなように食べられる暮らしが好きでした。
けれど同時に、その一枚を半分にして、「変な味だね」と笑ってくれる人がいることも、ずっと好きだったのです。
一人でいる自由と、誰かと分ける安心。
私はどちらか一方を選ばなければいけないと思い込んでいました。
独身を楽しむなら、寂しがってはいけない。
結婚したいなら、一人の時間に執着してはいけない。
自立しているなら、親を頼ってはいけない。
大人なら、部屋も人生も整っていなければいけない。
そんなルールを、誰に頼まれたわけでもないのに、自分で増やしていました。
でも、本当は矛盾したままでよかったのです。
一人が好きで、誰かに会いたい。
節約したくて、お菓子を買いたい。
痩せたくて、甘いものを食べたい。
強くなりたくて、たまには甘えたい。
どちらも本音なら、どちらも私です。
最後の一枚を母に渡した夜、私は損をしたはずでした。
楽しみにしていたヌガーの多いほうを食べられなかったのですから。
それなのに、不思議なくらい満たされていました。
好きなものは、一人占めしたときに一番おいしいとは限りません。
そして、誰かと分けるためには、完璧な自分になっておく必要もありません。
散らかった部屋でもいい。
答えの出ていない人生でもいい。
お菓子の粉が落ちたテーブルでもいい。
「今の私」を見せられる相手が一人いるだけで、夜は少しやわらかくなります。
翌日、仕事帰りにまたカルディへ寄りました。
いつもの棚を見ました。
でも、ヌガークラッカーはありませんでした。
売り切れたのか、取り扱いが終わったのかは分かりません。
店舗や時期によって入荷状況が異なり、いつでも出会える商品ではないという情報もあります。
以前の私なら、残念に思いながら一人で店を出たはずです。
けれどその日は、母にメッセージを送りました。
「ヌガークラッカー、今日はなかった」
少しして、返信が来ました。
「じゃあ今度、一緒に探しに行こう」
私はスマートフォンを見ながら笑いました。
ヌガークラッカーがなかったのに、なぜか少しうれしかったのです。
大好きなお菓子を買えなかった日。
その日、私は代わりに、次の約束を一つ手に入れました。





